詩のセンスとその伝承について思うこと

 
 俳句は正岡子規によって作り出された文芸型式なんであって、シャレじゃなく現代においても「子規が見たらどう思うか」が俳句の良し悪しの評価に大きく影響していると思う。
 学校で教わるような文学史では、高浜虚子河東碧梧桐といった人物と子規というのは、ほとんど「同じ時代に生きた俳人たち」ぐらいのイメージしかないけれど、実はそこには確固たる師弟関係があって、彼らは子規に全幅の信頼を寄せていたわけである。虚子が意気揚々と持っていった句を、子規が「つまらん。お前はなんにも分かってねえ」とピシャリと断じたことだってきっと何度もあっただろう。そしてこの「なんにも分かってねえ」は、つまりなにが分かっていなかったかと言えば、子規の気持ちが分かっていなかったわけである。虚子たちは子規の美学を理解しようとがんばっていたのだ。俳句とはそういう文芸なのである。句の完成度とは言い換えれば子規への理解度に他ならない。
 そしてそれは今でもほとんど変わっていないような気がする。結社という単位はそれの象徴だ。とある形で子規イズムを継承した人物が、次の代へその子規イズムを伝承するのが結社の役割である。なにしろ俳句というものがそもそも子規の美学で出来上がっているから、俳句が作られる限りはこの現象はいつまでも続く。
 これは実にすごいことであり、なかなかステキだなとも思う。自分のセンスが基準になるのだ。参加者たちは自分に憧れ、必死に自分のセンスへと摺り寄ろうとがんばるのだ。その状況はきっとかなりの快感だろうと思う。
 しかしそれは同時にきわめて気持ち悪いと思う。子規における俳句まで行けばいいけれど、そうでない限りは情けないお山の大将だ。考えてみれば俳句じゃないけど短歌で、ウェブ上でそんなことやってる人がすでにいたし。いますの? ええ、いますの。そして実例で見るその人物や、その人物を取り巻く状況の気持ち悪さを考えれば、やっぱりそういったものたちとは一線を画しておきたいなと思った。