現在過去未来萌え

 
 萌えに時間の概念を与えてみてはどうかと思った。
 これまでの考え方では、萌えとは一瞬であり普遍であるからこそ萌えなのだ、ということになっている。イデアを引き合いに出して語られることも多い萌えは、その場にあるそれ自体だからこそ永遠性としての萌えなのであり、そこに時間の推移によって発生する思念などが加えられてしまったら、それはもはや萌えではなくなってしまう。
 たしかにそれはそうである。完結性が保障されているからこそ我々は安心して萌えられる。それは事実だ。「ルーズソックス」を提示されたら「ルーズソックス萌え」をすればそれでいいのだから、話は明瞭である。
 しかしそれは改めて眺めるとあまりにも単純である。動物化と言われるのも納得である。それに完結してしまっているということは発展性も望めないということになる。なるほど言われてみたら萌えの追求とは、新しい萌えと、萌えの組み合わせによってしかなされていない。ひとつひとつは固定してしまっている。
 固定とはすなわち形骸化とも言えるだろう。萌えは装置としてしか働いておらず、我々はそれぞれの形やそれらを合体させたものに反応しているに過ぎない。
 なるほど世界は原子で出来ている。だからすべてのものは形であり固定されているとも言える。世界は組み合わせの妙によってしか出来上がっていない。だから萌えの機構もまたそうであることは、いたって自然なことであると。
 だが果たして本当にそれでいいのだろうか。世界をそんな風に即物的に捉えないところに、記憶を持ち思念を持つ人間独特の感情、詩情というものは生まれるのではないだろうか。時間の概念を意識して作られる不安定な萌えにこそ反応していきたい。
 僕はなんだかんだで俳句の季語の概念に嵌まっているのではないかと思い始めた。