学年題俳句1000詠講評 007 火遊び 高校2年生

 
 火遊びと高校2年生の結びつきは分かりやすいと思う。高校1年生を少女期のピークにして終焉と考えた時、それより前に行なわれるのは火遊びではなく恋である。それが良質のものか悪質のものかは別として、とりあえず彼女ら少女たちは胸をいっぱいにして恋をしている。それに対し女性となりつつあるそれ以降の存在は、恋と性を分離して捉えはじめるのだと思う。そしてこれは受験を控える高校3年生よりも、たっぷり遊ぶ時間のある2年生のほうが盛んなはずである。つまり恋の延長線上にない性、それこそが火遊びと言うことができる。そして当然ながらそこに恋のそれが持つような甘味は少ないのである。そのような視点で今回の句を味わってゆきたい。
 

火遊びも六度目ならば部活だね
  (「ホガラカノイロオゼ」 まひろさん)
火遊びも学生生命かけてする
  (「Jeux interdits!」 ルネさん)

 
 これらは火遊びの本質を鋭く突いている句である。恋なら6回したって600回したって部活にはならないのだ。なぜならば生きていることそのものが恋という名の部活動なのだから。それに対し火遊びは部活動になりうる。6回もしていれば立派なレギュラーだ。下校の際に見かけたバドミントン部で汗を流す中学までの親友のことを思いながら、帰宅部の私は男の上でひたすらに腰を振り快楽を貪っている。でも火遊びだって6度目なら部活って呼べるよね? 私の青春、間違ってないよね?
 

お父さんお母さんこれ火遊びやねんで
  (「ホガラカノイロオゼ」 まひろさん)
火遊びや本気やないんやそれやのに
  (「TEEN×TEEN×SEVENTEEN」  purope★papiroさん)

 
 偶然にも別々の参加者が、同じく関西弁の女の子の独白という形式の句を挙げてきた。まず前者のまひろさんの句は、火遊びの現場が両親に見られた場面だろう。両親が揃って観劇に出掛けるとかで、ここぞとばかりに男を家に連れ込んだら、チケットが来週のものだったとかで急遽帰ってきたのだ。そこで言った一言だろう。なにしろ火遊びならば部活。両親も安心である。「がんばれよ」とさえ言えるかもしれない。ところが次のpapiroさんの句では、部活動だったはずの火遊びが徐々に本当の恋になろうとしている。「恋からスタートしない性としての火遊びという名目の部活動」だったのに、それが結局のところ恋へと不時着しようとしている。逡巡するのも当然である。最終的にKEIKOと結婚した小室哲哉みたいなものだ。でもいいじゃない。喩えは大きく間違った気がするけど、そんな恋もある。恋に監督なんておらへんのやで。いるのは先輩だけや。そして先輩とは両親のことなんやで。先輩きっとこう言うはずや。それはもう火遊びなんかじゃないんじゃけえ……。
 

火遊びや咥えさせられ放水管
  (「TEEN×TEEN×SEVENTEEN」  purope★papiroさん)
アルトリコーダー吹くみたく火遊び
  (「ホガラカノイロオゼ」 まひろさん)
勉強の合間に火遊び夜食つき
  (「Jeux interdits!」 ルネさん)

 
 それにしてもちょっと火遊びというキーワードで各参加者はフェラチオのことを想像しすぎではないかと思ったのでここで苦言を呈しておきたい。「火遊び→健全でないセックス→フェラチオ」という流れに飛びつきたい気持ちはたしかに分かるのだが、三者三様にやりすぎだと思う。
 

杉原の火遊びだったら……いいんだよ
  (「ホガラカノイロオゼ」 まひろさん)

 
 しかし今回の投句の中で最もよいと思ったのはこのまひろさんの句である。まひろさんは高校1年生。まさに少女期のピークにいて、恋と火遊びというふたつの隆起の頂上におられる方である。この句はそんな彼女が、火遊びという言葉を用いながらも心のどこかで恋を求める、そんな絶妙のバランスの上に成り立っているものだと思う。言われたい。