マイブーム

 
 美少女における光と影ということについて考えたい。
 一見したところ光のみで構成されているような美少女という存在であるけれども、影のない光など存在しないのである。そしてその影とはこの場合、光りかがやく美少女の周囲にあって目立たない同級生とかそういう人間関係を指すのではなく、もちろんそういう捉え方としての光と影もあるだろうが、ここで唱えたいのは少女自身の中にある光と影のことである。またもうひとつ断っておきたいこととして、これは決して内面についての話ではない。すなわち心の闇とか、そういった類の話ではない。人当たりのよい朗らかな少女の、心の奥底にある強い妬みや嫉み、とかはどうでもいい。むしろそういうのを含めて輝かしい美少女足りえるのは自明の理であるとも思われる。丸ごと愛そうじゃないか。
 じゃあ結局なにについて言いたいのかということだが、ここで話したいのはあくまで肉体的なことなのだ。残念なことに圧倒的な多数である僕と精神の交感をなさない少女らにおいて、僕に向けて提供される材料としての情報は、つまるところ視覚的な、すなわち肉体的なものなのである(交感をなさないとは言え、こちら側が外見などから類推し、ある程度まで少女の感情を察してあげることは可能である)。
 その肉体的な観点において、美少女はどこまでも輝いているように見える。それはそうだ。美少女とは外見が優れているから美少女と呼ばれるのであり、だから視覚情報のみが与えられる「行きずりの関係」において、美少女の美少女としての価値性はもっとも高まると言ってよい。この効果によって僕らはこの荒廃した世の中を渡り歩いていけていると言っても言い過ぎではない。
 しかし言いたいのは、果たしていつまでもそれでいいのか、ということだ。少女の振り撒く外見の美しさを第三者として正直に享受するだけでは、なんの発展性もないのではないか。「山が高いなあ」とか「空が青いなあ」と言っているだけである。その感情は演出次第では一種の感動にも繋がり得るかもしれないが、価値という意味ではあまりにも低い。月並みなのである。
 僕はここから脱却したい。すなわち街で見かけるだけの少女にさえも、影をしっかりと感じたい。そうすることにより僕と少女はもっと深い次元に行けるのではないか。ひとりの少女を複数の男で眺めたとき、いつだって僕は他の奴らよりも深く、その少女のことを愉しみたいのだ。
 では一体どうすればそれが可能になるか。すなわち少女の肉体的な影とは一体なんなのか。
 僕はここに、「陰毛」という存在を提唱したい。
 ブラジャーブーム終了。陰毛ブーム勃発。