女の子すらんぐ

 
「中学生」
 
 これは決して中学生には浮かび得ない発想だと思うのだけど、いっそのこと「中学生」という言葉を、「性欲」や「SEX」あるいは「性器」のメタファーとし捉えてみてはどうかと思った。だって中学生と言えばとにかくそれだろう。高校生にもなるとそちら方面の見聞がある程度まで拡がり、自分とそれらとの距離感に頭を悩まされることは少なくなると思う。もちろん葛藤がなくなるわけでは決してないのだが、処理の仕方とかも手際がよくなってきたりするし、中学生時代ほどには深刻な悩みとはならない。とにかくいちばん困るのが中学生なのだ。だから例えば高校生になった少女が、「そう言えば私が中学生だった頃ね……」という話をするとする。そしてその話の中身が仮に、「クラスでイジメを受けている子がいて、学級会で問題になって……」みたいな暗いものだったとしよう。しかしたとえそれがどれほど暗い内容であろうと、「中学生だった頃」という導入ただそれのみにより、その話のテーマは「性」ということになる。どれほど哀しいイジメの話であっても、詰まるところは「性」の話なんだな、と思う。なるほど性的なイジメということだな、とさえ思う。あるいは「中学生だった頃の家庭教師の話」は、初体験の相手の話なのかな、という気がするし、「中学生だった頃の修学旅行の話」は、乱交の話なのかな、という気がするし、「中学生だった頃のプールの話」は、水中での話なのかな、という気がする。すぐにする。だから要するに「中学生」という言葉には、多分に「性」の要素が含まれているのだと思う。実際、中学生のことを見たり考えたりしているとき、僕の頭の中には性のことしか浮かんでこない。これまで僕が中学生について幾度となく語ってきたとき、いちどでもその話のテーマが「性」でないことがあっただろうか。ないのである。それこそがこの説の大いなる証拠であると思う。だから「中学生」そのものがエロい存在なのは言わずもがなだが、「中学生の頃……」という話をする高校生もまたエロだということだ。
 ここで長歌
 親同士 仲の良くして 観劇へ 出掛け残され ふたりきり 幼なじみの をとめごは 中学生にも なりにしか 我を変わらず 「ケンちゃん」と 呼びしをとめご 中学生 バドミントン部の 練習後 そのまま我が家に 帰りしか セーラー服を 替えもせず スクールバッグより 取り出でし エプロン着けて キッチンへ 鼻歌交じりに 中学生 カレーライスを 作りけり サイドメニューは グリーンサラダぞ