果汁100%

 
 前日付けの文章を書いていながら驚いたことがある。
 以下のような文章があるのを思い出したのだ。 
 

 かなりの期間に渡り、僕の中で美少女ゲームというのは不思議な存在だった。
 まず、どういう人間がプレイするのかが判らない。なにしろ美少女ゲームの要素というのは、そのままエロゲーにすっぽりと含まれているのである。ならばエロゲーをし放題の成人がするはずは当然ない。しかしかといって、十八歳未満の人間がするというのも不自然である。エロゲーの十八歳未満禁止表示というのは、それがエロゲーであるか美少女ゲームであるかの表示なのであって、文字どおりの年齢を規制する意味合いはない。
 ならば誰もがエロゲーをやって当然なのに、なぜか美少女ゲームというのは依然として存在する。生産があるという事は需要があるのはたしかなのだ。なぜだ。一体どんな輩が美少女ゲームなんて求めるのだ。
 この疑問が解決したのはかなり最近になってからだ。少女漫画を読むようになって、ようやくだんだんと理屈がつかめてきた。
 少女漫画の世界、それはとにかく清廉とした世界だった。衝撃だったのは、そこには性欲というものが存在しないという点だ。あるのはただ恋愛欲のみである。だから恋が成就し、唇を重ねた瞬間に、物語は美しく完結する。その先はない。そこがその世界の最深部なのだ。それは純然たる統制である。そしてその非現実差は、僕を魅了させてやまなかった。
 少女漫画と美少女ゲームは対応する。差異は視点の性別のみである。美少女ゲームもまたファンタジーのような幻惑的な香りで冒険者たるユーザーを夢の世界へと誘い、そして心酔させる。機構はまるで一緒だ。
 要するにセックスはあまりに人間的でありすぎるのだ。性欲を汚いものと取るかどうかは人それぞれだが、極限までに生物的なその現象を、物語中の登場人物にまでリアルに求めたくはない、という心情を理解するのは容易である。現実の世界ではどうしても無理だから、創作物に想いを託し、純潔なラブストーリーを仮想体験したい――そういう欲求こそが、そのまま少女漫画と美少女ゲームの需要につながっているのだ。
 しかし一応ここで断っておくが、恋愛感情というものもまた、当然ながら多分に人間的なものである。ましてやそれの基準がつまるところ容姿であるという点においては、それら創作物の登場人物たちというのは現実以上に貪欲であるとさえ言えよう。欲まみれの汚い現実から目を背けたくて物語を求めているのに、それではむしろ逆効果ではないか。
 しかしそうではない。重要なのは、たとえ過程の恋愛感情が醜く人間的であれ、結末は決して人間的ではないという点である。これについてはメタ的な考察が重要になる。すなわち媒体という区分を考えるのだ。どこで何が起こるか分からない現実と異なり、物語には媒体という確固たる統制ができあがっている。それは絶対的なものであり、意表を突かれる事はまずないと言っていい。
 たとえば僕は「りぼん」の読み切り増刊号を読むにあたり、それに性的な要素を求める気持ちはページを開く前からあまりない。もしもこの点が裏切られ、りぼん誌上で濃密な性交シーンが描かれれば僕は死ぬほど驚くだろうが、それは絶対にない。それと同じく、美少女ゲームをしていたら実はエロゲーだった、という事も法律上ありえない。これは文章の初めの方にも書いた。つまり物語に触れる前から、結末は前提としてそこに存在するのである。
 このように少女漫画や美少女ゲームというのは、はじめから綺麗なままで話が終わる事が固く約束されている。そして、だからそれらには需要があるのだ。現実逃避のロマンスとして、人々は安心してそれらを求めるのである。

 
 読んでの通り、「性とは切り離されて存在する少女」という話に関連するところが多くある。
 そしてこれがなんの文章かと言えば、今から4年近く前、大学に入ったばかりの18歳の5月の僕が、入部した漫画研究会における新入部員紹介誌に寄せたものなんである。
 これっていろんな意味ですごいことだと思う。