俳句と川柳

 
 夕立にあって少女のアンモニア
 雨粒でそれほど腿は濡れようか
 
 前者が俳句、後者が川柳。どうだろう。
 「俳句と川柳」にはいろいろな人の唱えた俳句と川柳の定義が紹介されていた。
 その中で近江砂人という人の、「俳句は自然詩であり、川柳は人事詩である。俳句は人事をも自然化し、川柳は自然をも人事化する」という意見が気に入った。復本は一部認めつつもこの意見を否定していたが、素人目には分かりやすくていい。理論的だし包括的である。
 要するに「俳句は基本的に世界を肯定していて、川柳はニヒル」なんじゃないかと思った。川柳において必要と言われる「穿ち」、それはすなわちニヒルということだ。「俳句は直感的で川柳は理屈っぽい」とも言えるか。またこれは吉田羅漢坊という人が言っていることに近いが、「俳句は長男っぽくて川柳は次男っぽい」という考え方もできると思う。これはきわめて感覚的なのだが、わりとピンと来やすい意見ではないか思う。
 こうして考えると、僕は俳句よりも川柳のほうが適しているんじゃないかとも思う。ただしおもしろさが高いのは俳句かな、という気もする。悔しいことに理屈は、往々にして直感に勝てないのだ。日常生活においてそれは痛切に感じるところである。ふだん理屈っぽいだけに、十七文字の詩では直感を武器にしたいという気持ちも湧く。
 あのエロチック俳句の日野草城なんかは、「川柳は「うなづかせる文学」、俳句は「感じさせる文学」」という考えだったらしい。
 なるほどエロを詠うなら「感じさせ」なきゃいかんな、とこれは深く感じ入る。