ホック船長

 
 どうしてブラジャーがブームなのか。
 夏は下着よりも水着を尊んでいた。その理由は、水着は下着とおなじ表面積しかないのに、なぜか女の子が大らかに公開してくれるからである、といったものだった。
 僕は「下着や水着程度の布ならば網膜の段階でそれを排除する秘技」を持っているわけだが、そもそも落ち着いて考えてみると下着姿の女の子なんて目にしない。ティーンズ系ファッション雑誌を眺めても、「水着の女の子」の写真は7月号に載っているが、「下着の女の子」の写真は1年を通して何月号にも掲載されていない。ならば水着を尊ぶほかないだろう。目にしたことがないものを尊ぶことはできない。偶像崇拝を禁止するイスラームに聞かれたら怒られそうな文言だが、仏像ばかりの国で育った僕はどうしてもそう思う。
 とは言えこの発想はもはや数ヶ月も前、夏の時点での僕の見解である。そしてブラジャーに嵌まる現在の僕に言わせれば、この認識はきわめて浅はかなのである。
 なぜならそれは水着も下着も一緒くたに「脱がして裸にするもの」、「女の子を裸にさせやすい表面積の小さな衣装」としてしか捉えていないからである。そしてその遭遇機会の多寡によって水着に軍配を上げているだけだからである。
 ああ、本当になんて浅はかなんだろうか。
 女の子の裸はたしかにいい。たしかにいいけれども、ただしそれは「女の子の裸をわずかに隠す小さな布」、そのエロティシズムを強引に剥いでまで享受するほどのものでは決してない、ということだ。夏の僕はあまりにも動物的すぎたのだ。冬の冷静な頭で考えるに、さまざまな服飾文化を持っているわれら人間が、無条件で「裸がいちばん」という結論を出してはならないのである。なにがいちばんよいのか、それを模索するのが知的動物たるわれわれ人間の使命のはずである。
 そこで翻って今現在の結論として、僕は「ブラジャー」という地点にいるということだ。
 そして付け加えるならば、このブラジャーのホックが締まっているべきか外れているべきか、それが目下の課題である。