学年題俳句のためなら脱げるわ

 

 はだか……天国での姿。だが、この世は地獄なので、はだかは不遜のこととされ、法律で罰せられる。したがって、寝室または芸術という天国のうちでのみ許される。

 という一文をある本で目にした。
 そしてこれを読んだときに頭に浮かんだのは、「半脱ぎ」という言葉だった。
 エロゲーの紹介記事などでも、「半脱ぎエッチ満載!」などという文をよく目にすると思う。
 もっともエロゲーの場合、その少女たちとはつまるところ、ひとりの原画家によって作られた2次元キャラクターであり、実はキャラごとにあんまり顔そのものは変わらず、服装や髪型とかで区別されている部分が大きいから、セックスの前にシャワーを浴びて髪をほどいて素っ裸になってしまったら、その子が一体どのキャラクターなのか分からなくなってしまうわけで、それゆえの「半脱ぎ」という事情も大いにあるのだろうと思う。
 とは言え、だからと言ってすべての「半脱ぎ」は、やまれぬ理由により生み出された苦肉の策なのかと言えば、もちろん決してそんなことはなく、なるほど「半脱ぎ」によって強調される少女美の部分も大きい。何度も言及しているテーマだが、つまり「隠されることにより一層かきたてられる」というやつだ。
 そしてそのかきたてられる要素、少女美の部分とはなんなのかと言えば、取りも直さずそれは「エロさ」なのである。「半脱ぎ」→「隠され」→「エロし」という図式だ。ちなみにここから「隠されれば隠されるほどにエロい」という例の発想や、「エロくなければないほどにエロい」という例の法則も生まれてくるのだが、それはこの文章の主題から外れるのでいい。
 ここで述べようとしているのはつまり、「はだか」→「芸術」、「半脱ぎ」→「エロさ」という両者の関係である。裸の女性の曲線的な肉体美、それが芸術であるということに異存はない。またその要所要所を布などで隠すことによりエロさが膨らむのだということも大いに納得できる。問題なのは、果たしてそれは比例関係にあるのか反比例関係にあるのかということだ。
 この思念の行き着く先に、ファッション分野におけるゴールは存在するのではないかと思う。