鏡天鏡床

 
 先日あるテレビ番組で、最近やけに多い秋葉原リポート的なことをまたやっていたのだけど、そこで紹介されていた店のひとつに「メイド理容室」というのがあり、これがなかなか興味深かった。
 このお店ではわりと高価なお金を取ってマッサージ的なことをしてくれるのだそうだが(ちなみに言えば、風俗店と異なって客との身体的接触をすることができないメイド喫茶に対し、このメイド理容室のマッサージというやり口は、非常にギリギリのラインのアイデアで、なんだか愛しい)、その際リクライニングシートに体を落とし天井を仰いだ客(ご主人様か)は、ひざまずいて自分の腕などを揉んでくれるメイドの姿を、天井一面に張られた鏡で確認できるようになっているのである。
 おもしろかったのは、この天井一面の鏡というのを見て、リポーターの芸人がこう言ったのだ。
「鏡は床だろ」
 これはつまりノーパンしゃぶしゃぶ的な発想で、せっかく従業員たちがメイド服でスカート姿なのに、鏡が天井ではその内部を見ることができないじゃないか、逆だろう、ということなのだ。2次元に関する理解がまるでなさそうなその芸人には、この鏡が天井にあるということが、まったくもって不可解そうだった。
 僕にはもちろん分かる。鏡が床ではなく天井にあるのは、結局のところメイドに奉仕される悦び、すなわち萌えるという感情とは、「メイドに奉仕されている自分」「萌える状況にある自分」を確認することにより発生するものであり、だから床に鏡があってメイドらのスカートの内部が覗けようと、それはたしかにエロいかもしれないが、萌えとしての価値はまるでなく、メイド理容室に行く輩というのは萌え以外の何者も求めていない(とも限らないかもしれない)ということなのだ。
 ここで対立するものの二者の立場は、「一般客」と「リポーター」、「萌え」と「風俗」、「萌え」と「エロ」、「自己満足」と「征服欲」など、どれもあまりしっくりは来ないのだが(特に「萌え」と「エロ」はきわめて分離しにくい)、どちらにせよこの話でおもしろいのは、その二者の差異が「鏡が天井」「鏡が床」という、たったそれだけの配置の違いによって明確となるという点である。まるでリトマス試験紙のようにはっきりしている。あるいはキリストの絵を踏めるかどうかという話のようだと思う。
 そしてこの「メイド産業」か「風俗」かというレベルの話の場合、先ほども触れたように、喫茶店では肉体的な接触ができないがゆえ理容室という形にし合法的にマッサージをするといった、ある種いじましい工夫で法律をくぐり抜けており、すなわち「世界でいちばん初めにできた職業は売春婦である」という言葉があるように、女性がその肉体を商品とする風俗という商法は元始から存在し、であるからこそそれに対する法律もまた強固なものとなっており、その結果として「鏡が天井」「鏡が床」といった分かりやすい差別も生まれ得るわけだが、しかしそれを2次元に置き換えて考えてみると、話はそうそう簡単でなくなる。
 つまり2次元においては、どんな女の子がどんな状況にあれど売春行為をしうるし、また作り手にとっては消費者へ向け、その女の子をただ萌えさせるものにしようが売春行為をさせようが、ギャランティーも設備費も免許も、あらゆる面から見てなんの違いもないわけである。だからこそ現実では不可能の、「萌え」と「エロ」の融合の表現所としても2次元は有用だということになる(現実の風俗店において萌えを作り出すことの困難さについては触れていないが、これは言わずもがなだろう)。
 そして僕はそういう意味でエロゲー尊いと思うわけだが、ここで問題になるのは、そのように「萌え」からも「エロ」からもアプローチのしやすいエロゲーであるがゆえに、その門戸の広さが仇となり、エロゲーにはただただ「エロ」でしかないものも少なくない、という点である(ちなみにただ「萌え」でしかないゲームはギャルゲーであり、それはもう別の世界の話だ)。
 すなわち風俗的発想から作られた、「鏡床」的エロゲーである。これには実になんの価値も存在しない。現実の風俗にさえ少なからず存在するだろう価値を、わざわざ作品として昇華させつつも放棄している。まったくもって無駄である。
 そうではなく、我々がエロゲーという地表で求めているものとは、そこでしかできない、「萌え」と「エロ」が高次元で結びついた形なのだ。つまりそれは鏡が天井にもあれば床にもあるという、そのような世界である。
 ただしここで忘れてはならないのは、鏡を向かい合わせに置くと反射により、そこには無限と混乱が生まれるということである。だからこそどうしようもないのだし、だからこそおもしろいのだと思う。