「エロきこともなき世をエロく」 byエロ杉晋作

 
 SEXの四十八手は、よく見れば主要なもの以外は無理があったりする。イラストに添えられる説明文でもそういう体位については、「技術的に難しいがそれでいて挿入は浅いため、実用性はまるでない」とか書かれていたりする。
 それにしても思うのは、挿入の深さがどうとかこうとかいう以前に、その体勢はあまりにも不恰好ではないのか、ということである。柔軟性が問われる曲芸のような姿勢を取るそのような体位で、果たしてSEXの気分は盛り上がるのか。
 そこで思うのは、さまざまな体位の開発は人類の工夫の歴史としてきわめて尊いが、決して他の生きものがしないような複雑な体位になればなるほど、それは生殖を先に見据えたエロスとは懸け離れていくのではないか、ということである。
 すなわち体位の研究とは、普通に考えればエロスの追求ということになり、実際そういう心情の発露からなされるのだろうが、しかし結果として現れる事象はその逆で、むしろエロスからの脱却を推し進めているのではないかと思われる。あまりに不自然でかつ気持ちよくもない姿勢でSEXを行なうことは、エロスや生殖とは分離したよく分からない、このよく分からない感じを表現する手段としてひとつとても便利な言葉があり、それを使用するならば、とても「文学的」な行為なのではないかと思う。
 そこでまた思い出されてくるのが、中島敦の「名人伝」である。弓矢を極めすぎたあまりに弓矢のことを忘れてしまうこの話のように、SEXを突き詰めていけばそれは次第に上記のような「不自然な気持ちよくないSEX」となり、そして最終的にそれは「SEXをしないSEX」に至るのではないだろうか。
 まあ自分で書いておきながら「SEXをしないSEX」ってなんなのかよく分からないが、ずっと前に読んだなにかの本で、「精神をうまくコントロールできるようになれば、手を繋ぐだけでもイケるようになれる」というような話があったが、そんなようなものに近いのかもしれないと思う。
 ここで結論として出るのが、上記の「文学的」という言葉にも表れているけれども、「分かりやすい形としてあるエロス(低度)」と、「それを突き詰めた結果として直接的でなくなったエロス(高度)」が世の中にはあり、バイオレンスな感じで描かれる前者などは「文学的」とはとても言えず(現代文学はそればかりだが)、後者のそれのさりげない描写などから情趣を感じ取るところに「文学的」なエロスは存在する、ということであり、古来より和歌の修辞法などでそういったことはなされて来、想像するに平安貴族が女性からもらった曲線を駆使した平仮名だけの手紙なんかは、今で言うセルフヌード写真ほどに興奮をかき立てたのではないかということであり、また「直接的でないエロス」すなわち「弓矢を忘れた弓矢の達人」だが、彼の日常の所作は「弓矢をまるで扱ったことのない人」とまったく同じであったとして、だとすれば「直接的でないエロス」もまた外面に現れている点だけを見ればそれは「ぜんぜんエロスではないもの」と同一ということになり、つまり言いたいのは、「エロくないもの」と「エロすぎるもの」は同じ外見をしているのだということである。ここに詩が生まれ、女子中学生コウコツ文字が生まれ、女の子すらんぐが生まれる。中学生を愛する僕はロリコンなのではなく(もはや中学生を情愛することにロリコンという言葉を使うのもちょっと大袈裟じゃないかと感じるような世の中だが)、彼女らにはエロスに目覚めていないからこその究極的なエロスがあるということだ。『 ● 』からだって『   』からだってなんだって想像できるし実現しうる。だって世の中はパラレルワールドだらけなのだから、そんなのシャングリラに決まってると思う。世界はたのしい。
 途中でなにが書きたかったのか分からなくなった。変な結論。