少女
「少女」とは近代になって発見された存在なのだという。
昔は女性の結婚年齢が今に較べてかなり低かった。みんなけっこう12歳とか13歳とかで結婚していたのだ。これがどうしてかと言えば、彼女たちが男の妻になるにあたってなんの問題もない、女性としての機能を備えていたからに他ならない。
生きものの生きる理由は遺伝子をつなぐことであるとすれば、初潮を迎えた後の女において、結婚について発生する問題はなにもない。だから12歳や13歳での結婚もいたって普通である。産める年齢になったら産めばいいのだ。他の生きものたちはみんなそうしている。
しかし近代になり社会制度が整ったことなどから、女において「少女」という時期が生まれる。これは「子ども」と「女性」の間に発生した、正体のよく分からない微妙な期間だ。すなわち肉体的には立派に「女性」でありながら、社会的には「子ども」ということになっている。きわめて不自然。そしてそうであるがゆえに人間的だとも思う。
思うに、ここにこそ僕の創作テーマはあるような気がする。すなわち、欲情するに足る要素を備えておきながら、欲情してはいけない存在としての少女。近代以降に発生したこのジレンマ、そしてそれに派生する感情をこそ、僕の詩が詠もうとしていることなのではないかと。そのように思う。
であるからこそ、やはり「non-no」は許せないということになる。
セックスを行なう、性の対象年齢が低下してきている。これは「少女」というその妙なる存在の消滅を意味している。すなわち時代は逆行し、ふたたび「子ども」の次の段階は「大人」になってしまってきている。「non-no」のSEX特集はそれの象徴である。
…………。
……いや待てよ。落ち着いて考えてみて感じた。
もしかすると、「少女」は消滅していないのかもしれない。ただ単に、「少女」がSEXをするようになった、もしかしてこれはただそれだけの話なのかもしれない。
「欲情するに足る要素を備えておきながら、欲情してはいけない存在としての少女、のための雑誌で特集されるSEXのテクニック」
冷静に考えればこれはきわめておもしろい。逆説的で背徳的だと思う。
僕の詠みたいことはすでにして、リアルにおいてめっぽうおもしろい形で、実現されてしまっているのかもしれない。そのようにも思う。