三が日は励むってば

 
 いま読んでいる中西進の「日本文学と漢詩  外国文学の受容について」(岩波書店)は、締め切り直前にして卒論執筆にあたっての重要な資料になりそうな色合いである。
 書かれていた内容で感心したのは、『詩は志を詠い、歌は情を詠う』という話で、これはすなわち前者が中国の漢詩、後者が日本の和歌を表している。両者のポエムにはそういう特徴があるわけだ。たしかに漢詩には政治についての詩とかが多く、日本のそれのような恋愛の詩は少ない。漢詩の女性作家が少ないのもそれを表していると言える。
 そんなわけで日本人が漢詩を作るとなると、どうしてもそこに本来の漢詩向きではない「情」が含まれてしまうということになる。なぜならばそれが和歌をはじめとする日本人の詩作において、意識上の前提として存在するからである。
 こうして表れる漢詩における日本人らしさのことを『和臭』といい、中国人が「普段から俺たちの漢字をパクって使ってる日本人が、とうとう調子に乗って漢詩を作りやがったら、おいおいフハハン、なんだよ本場ではこんな表現しねえんだよ」と嗤う例のあれである。もっとも本当に中国人がそんなこと言うのかは分からないが、日本人漢詩作業界(どんな業界だ)においては、「中国人にそう言われちゃうから気をつけようぜマジで」ということにとりあえずなっている。
 しかしそんな中で、著者の中西進は堂々と言うのである。「和臭でいいじゃないか」と。
 詩において志ではなく情の比重の大きい日本人だからこそ作れる漢詩、中国人には作れない日本人独特の感性で作られる、和歌の要素の含まれた漢詩、日本人の漢詩にはそういう方向性があるのではないか、と。そういったことを和漢朗詠集などを題材に説明する。
 これには大いに感じ入るところがあった。言うまでもないがこれは、かなり僕の主張したいところに近いのである。
 おなじ意見を唱えている権威者を発見すると普通に安心するなあ。