都々逸統一

 
 中道風迅洞というひとの編纂した「どどいつ万葉集」(徳間書店)というのを読んでいる。ものすごくおもしろい。まえがきで都々逸のことを「定型庶民詩」と表現していて、これはシンプルな言い方ながらなかなかにガツンと来た。いいね。流れるかのように滑りのよい、26字の定型庶民詩。ヒップホップが流行っている現代、都々逸もまた流行ってぜんぜん違和感のないものではなかろうかとも思う。
 またほとんどのものの内容がジョーク的であるのもよい。句の評価基準は「滑りの良さ」とか「謎落ち(叙述トリック)」、「くだらなさ」や「エロさ」といったもので、まさにエンターテイメント至上主義。
 僕がなぜかいま試みている、詩とエンターテイメントの融合なんてことは、なんのことはない、200年以上も前から平然と行われていたんだな、ということを改めて実感する。そりゃそうか。昔なんてむしろ読み書きこそが特殊であって、音声表現がすべてなのであって、口コミだけが情報のほとんどすべてである江戸時代の庶民、それらの口を通してひそかに流行る、滑りだけのくだらない庶民詩、そういったものっていうのは、誕生するべくして成立したと言っていいだろう。
 これは本当にしみじみと思うことだが、短詩が成熟する土壌は、昔のほうが確実にはるかに肥えている。昔は言葉を凝縮するしっかりとした理由があった。そうしなければ口々に伝わるということがなく、蔓延しなかったからだ。実を言うと今はこれがない。得意の「一首の短歌の背後には、一千枚の散文がある」という言葉を例にとってみても、じゃあ散文を一千枚書けばいいよね、ということになりかねない。江戸時代の口コミでの短詩のやりとりを現代版に直すと、それはいまウェブ上での出来事になり、データでのやりとりになって、都々逸ではなくフラッシュとかになっている気がする。嫌いな言葉であるけれど、きっと江戸の庶民も現代のそれとまるで変わらず、おもしろい都々逸を聞いたリアクションは、「○○のネタ最高!」みたいな感じだったんだと思う。そしてそのフラッシュを伝達するためのデータ量というのは、短詩どころか長編小説を保存するためのバイト数さえも軽く超えるのだから困ってしまうと思う。やはりこれでは短詩は必然性を持たない。うーん。
 まあいいや、本の話に戻ろう。本の目次には収録されている無数の都々逸句のカテゴリ分けが並び、そこには「恋ごころ」であるとか「未練」であるといったおもしろそうな言葉が見える。しかしやはり真っ先に目が行ったのは「ばれ句」の章であった。
 気に入ったのは次の2句。
 させば気がいくささねばいかぬ いくもいかぬも棹次第
 炬燵でふざけりゃ浜辺の遊び 足で貝掘ることもある