制服であり征服であり性服なわけですよ

 
 知人と話をしていて、「私立小学校に通う女子児童とかが制服を着ていると、年齢以上にしっかりしているように見えるが、その一方で高校を卒業して制服を脱ぐことになった女の子は、やけに大人びて見えはしまいか」という疑念を持つ。
 この現象から察するに、つまり制服というものが持つ年齢イメージは常に一定なのだと思う。幼き少女は大人っぽい制服に引っ張られ、そして成長した少女は子どもっぽい制服に別れを告げる。そういうことなのだ。
 ここで独断と偏見でこの、制服が持つという年齢イメージなるものを定めるとするならば、それは高1であると僕は唱えたい。これが少女の成長と制服という存在の、最も噛み合っている時期、両者にとっての蜜月であると言える。
 何度も言っていることだが、高校の上級生というのはもはや完全なる少女とは言えない。この時期の少女の詩情とは、失われていく少女性を偲ぶ滅びの美学である。よって少女性のピークは高1であるというのはすでに出された結論である。そして高1と言えば、それはすなわち性への目覚めの時期に当たる。そこからこそ少女性の瓦解が始まるのだったろう。ここを最高潮として。
 そこで考えたいのは、制服と性の関係性である。制服は僕にとって途轍もなくエロい装置なのだが、その一方で少女たちにとり制服は、性への意識が生まれると同時に違和感を発生させる装置だということである。
 すなわち少女たちにとってエロでない制服であればあるほど僕にとってはエロく、少女たちにとってエロい制服であればあるほど、僕にとってはエロくないということはできまいか。反比例なのではあるまいか。エロければエロいほどエロくないし、エロでなければエロでないほどエロい。もしかするとここに幼女愛好のカラクリも隠されているではないかとさえ思う。