ゆめゆめ思うまい

 
 いま俳句の本を読んでいるのだが、それを読んでいて思ったのは、なんだよ俳句って実はくだらないんじゃないか、ということだ。
 なんか最近の印象では「俳句は風流に花鳥風月を詠う」「川柳はちょっとした笑い話。詩情とかはいらない」みたいな感じがあるけれど、そんなことはぜんぜんないのだ。あの芭蕉だってものすごく笑いにこだわっていたという。俳句がどれほど「笑えなければいけないか」弟子に説く芭蕉は、もはやよく分からない境地にいる至高の俳人というイメージを覆し、これまで触れたことのないくらいに生き生きとした人間像だった。なんだ、俳句ってそういうもんだったんだ。
 そうして思うのは、俳句がそうなら漢詩だってやっぱりきっとそうだったんだろうということだ。なんてったって酔っ払いとかが作ってるんだし。と言うよりも僕の考えでは、詩を定型のリズムに乗せる意義なんてものは、「笑いを求める」以外にありえないとさえ思うのだ。リズムに嵌まるよう「うまいこと言おう」っていう考えからすべての詩作は始まる。だから全ての定型詩は滑稽味、笑いがキーとなる。
 そう考えると、「逆にくだらないジョークとしての漢詩」というのは、「漢詩は固いもの」という一般イメージを否定し新しい考え方を提唱するためのネーミングなのだが、実際には否定もなにも、前提としてあったそのイメージは正当ではなく、それはおそらく学校教育とかが僕らに見せていた、文部省の勝手な解釈だったんじゃないかと思えてくる。逆じゃねえんだ。真なんだ。