テンション上がるほどに

 
 ちょっと前にすこし話題になっていた、黒川伊保子の「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」(新潮新書)を読んでいる。さわやかさのS、たしかさのTなど、それぞれの音が持つイメージについて書かれた本。
 言葉について書かれているのに、内容はある意味どこかロマンチック。人類が共通で抱く言語を超えた次元での音へのイメージ。読んでいるときの気持ちは、動物学の本を読んでいるときのそれに似ている気がする。なんだか新鮮な感じ。
 ところで上のいろは歌は、昨日のそれとほとんど同じ(正確には濁音の付け方は違う(そしてそれは大きな違いであるかもしれない))46音で作られているわけだが、この場合、音の発するイメージに違いはあるのだろうかと思った。普通の詩なら「Nの音が多いと湿り気のある感じ」みたいな詩の印象が生まれるわけだが、なにしろ基本的にいろは歌にはそれがない。順番だけで音は常に同じなのだ。どうなのだろう。
 それと音のイメージ、これは漢字の偏にも重なることなんじゃないかとも思った。僕は先ごろから漢詩において女偏の漢字を使わないことにしているわけだが、それは「この詩にはちょっとでも湿り気があったらまずいからN音は避けよう」という考え方と共通する部分がある気がする。特に日本人は漢詩を発音しない、すなわち音を持たないがゆえに、偏というものがいわゆる詩における音のような効果をもたらしていて(もちろん音のイメージよりはいくらか思惟的かもしれないが)、詩全体のイメージを作り出しているのではないか(そしてそれが「雑念」であったりするんではないか)、と思った。
 とにもかくにも思うのは、日本語って本当に愉しい。学べば学ぶほどそう思う。ひらがなだけでもすごいのに、加えて漢字を駆使するのだ。複雑すぎ。贅沢すぎ。